「絶対に幸せになってね。」はない

気持ちとの向き合い方

「絶対に」という言葉は結構きつい言葉です。何でもかんでも「絶対に」と付ける人もいるけれど、本当に「絶対に」を実行するとなると、かなり努力が必要です。

親が子供の結婚する時に、「絶対に幸せになってね!」と言ったりします。本当に「絶対に」なって欲しいのだからそう言うのであって、すごく愛情があって、自然なことです

でも、「絶対に幸せになる」って実はすごく難しいことです。そもそも「幸せ」の定義もよくわからないし、瞬間瞬間の幸せなら、誰だってそこそこ味わっています。

すごい困難や試練が沢山あっても、人生振り返ってみて、その時になってようやく「あー幸せだった」と思う人もいます。そう言えるのは、過ぎ去った日々は決して楽なものではなかったけれど、そこから学び、成長し、人生の深みを味わって、「なんやかんやあったけれど、幸せだったな」と思えているんです。

ふわふわした感情で感じている「幸せ」

幸せって結局感情にすぎないんですね。その場その場の。

だから、絶対に幸せになるというのは、よく考えれば意味不明です。感情なんてものは、いつもふわふわ動いています。「絶対に幸せという感情を得る」は時にできるけれど、「絶対に幸せになり続ける」は、全く別次元です。

今日の感情も明日になれば変わります。今日幸せと思ったことも、明日になれば、また違う種類の幸せを求めるんです。

人はどこまでも「慣れ」ていく生き物です。だから、以前は心の底から願った何かを、今きっと叶えているにも関わらず、もうそれは当たり前のこととして、感謝や感動を忘れるんですね・・・。

そう言う風にふわふわと変化する感情で「幸せ」を考えても、「何の幸せ」のことを言っているのか、分からなくなってしまいます。

今苦しい状況にいる時、「早く幸せになりたい」と思うのは自然です。でも、それは「幸せ」じゃなくて、「早くここから抜け出したい」と思う気持ちが勝っているだけだったりします。

抜け出したら、確かに、「今」の苦労は、無くなったように見えます。でも、それは無くなったように見えただけで、新しい所へ行けば、また新しい挑戦が待っているんですね。だから、そこでまた幸せを求めても、幸せの追いかけっこになってしまいます。

一部の人生を捨てるような選りすぐりはしない

「絶対に幸せになってね。」というのがおかしいは、まるで「幸せ」という状態があるように定義しているところです。「幸せ」である状態があるなら、「幸せではない」状態もあるということです。

その考えの方が、よっぽど幸せを遠ざけてしまいます。何かが良くて、何かが悪いとかを自分の人生の中で選りすぐりしているようでは、人生の一部しか、求めていないのと同じです。

スイカを作る時、中の赤くて甘い部分だけを作ろうとする感じです。頑丈な皮に守られて、次のスイカを生み出す黒い種を共に持つからこそ、赤くて甘い部分が存在できるんです。

そんなスイカに「絶対に赤くて甘くなってね。」と言って、赤くて甘い部分しか見ていないのが、「絶対に幸せになってね。」だと思います。

自分の人生は、全部自分の人生です。何かだけを選ぼうとすると、疲れてしまいます。本当は決して余計なものではなかったのに、余計なものとみなして取り除いてしまったら、大切なことを見失うかもしれません。それはもったいないことです。

心が感じる「幸せ」なんてものは、舌が感じる「甘さ」みたいなものです。辛さもあって、塩っぱさもあって、酸っぱさもあって、その他諸々の味があって、初めて「甘い」って分かるんです。毎日、毎日「甘いもの」ばっかり食べていたら、それが「甘い」ことすら分かりません。

「絶対に幸せ」にならなくていい

「絶対に」幸せになんてならなくていいんです。ふわふわとした感情を持つ人間では不可能なことに「絶対」とつけて、自分に余計なプレッシャーを与えるのではなくて、人生で味わう全ての辛楽をスイカの皮や種のように「必要なもの」とみなします。

そうやって、現実を眺める時、もっと謙虚になって、現実を受け入れることができます。「悪い面」しか見れなかった毎日から「良い面」に気づくことができるようになります。

そうすれば、「絶対に幸せになる。」なんて思って、まるで今をそこそこの幸せか、もしくは普通か、それとも幸せでないかのように捉えるのではなくて、これも十分、幸せと心からそう見える目が少しずつ養われていきます。

自分に甘くなるのではなくて、自分が現実的になるだけです。絶対に「幸せにならないと」とか、「幸せにしないと」と思って、プレッシャーを感じている人、もうその重荷を心の外から追い出しましょう。