私はADHDなの?
カウンセリングをしていると、心理カウンセリングそのものは全くの初めてという人もいれば、以前、別のタイプのカウンセリングを既に経験された方も見えます。
先日、カウンセリングに来られた方で、以前に受けたカウンセラーからADHDと言われたという方が見えました。そのことに関連して、今回はADHDのテーマで書いていきます。
目次
ADHDとは何か?
その前に、すでにご存知の方もいらっしゃると思いますが、ADHDとは何なのかを簡単にまとめておきます。
ADHDとは、注意欠如・多動性障害のことです。別名で、注意欠陥多動性障害/注意欠如多動性障害と言われたりします。主に、「不注意」「多動性」「衝動的」という3つの基本的な特性を持つもので、発達障害のカテゴリーに分類されています。
もともと、ADHDは英語の頭文字をとって、「Attention(注意)Deficit(欠陥)Hyperactivity(多動性)Disorder(障害)」からきています。つまり、不注意で、落ち着きがなく、よく考えずに行動するという意味です。
精神医学の用語やその内容については、言葉だけ聞いても、難解なものも多いので、わかりやすく説明されている本やサイトも沢山あります。参考までに、以下のサイトもADHDについて詳しく説明してあるので、ご興味があれば見てみてください。
・医療検索サイトADHD :https://medicalnote.jp/diseases/ADHD
みんなどこかで問題を抱えている
大人なって、様々な問題に遭遇した時、本当に自分を見つめ直して、変えていかないといけないくらいの状況にまで陥った時、人は自分の姿に真剣に向き合おうとします。
その過程で、本を読んだり、学びを受けたり、カウンセリングやワークショップ、自助会などのコミュニティに所属することもあるでしょう。
そうしていると、今まで何とも思っていなかったのに、実は自分は大きな問題抱えていたと気づいたりすることもあります。
今回のケースのように、子供の時には全く自分も周りも自覚せずに育ったのに、振り返ってみると、実は自分はADHDだったのかと思うのもその一つです。
自分でこうだと思う場合であっても、他の人にこのような傾向があると指摘されて気付く場合であっても、「何か定義する・される」ことにあまり深刻になってはいけません。深刻になってしまえば、せっかくの気づきが成長のための糧になるどころか、負担で重苦しいものになってしまいます。
みんなどこかで何かの問題を抱えているのです。この世に完全な人なんて一人もいませんし、そもそも「完全」という定義すらできません。人は自分の勝手な価値観で、これはいい、あれは悪いとしたり、多数決の原理で、一般的にこういうものを普通といい、そうでないものを異常と言ったりしています。
今回のADHDも、不注意で多動性で、衝動性があるという言葉の意味だけに注目すれば、そんなことは大なり小なり誰しもが抱えていることです。
時に集中力がなくなったり、ものをなくしたり、細かいことに気づかなかったり、じっとしていられない気持ちになったり、思いつきで行動してしまう・・・ということは日常的にあります。
これも個性の一部で、こういったことを通じて、「もっと、こうしよう、ああしよう」と人は学びながら、成長していくのです。不注意、多動性、衝動性のその度合いが大きいか小さいかを見て、ADHDに分類されたり、されなかったりするだけに過ぎません。
大人になってから、自分が意識していなかった問題に気づいたとしても、深刻にならないことが大切です。
安易に自分にラベルを貼らない
そもそも、自分にラベルを貼ることにあまり躊躇しないことは、少し危険です。ADHDというラベルを自分に貼ってしまったあまり、「やっぱりADHDだからなんだ・・・」などと、これまで何も気にしなかったことが気になったりして、それが余計にストレスになったり、慎重になりすぎてしまったら、毎日を楽しめません。
自分にラベルをつけるとき、「問題のラベル」をつけるのは心にとって健全ではありません。問題を知ることは大切です。問題の存在の意味は、問題を知って、「自分はこうしよう、ああしよう」と改善できるからです。
受験勉強でも、自分には「これが解けない」と知って、初めて対策を取ることことが出来ます。それを努力して解けるようにできるなら、それは一つの改善だし、どう頑張っても解けないなら、それはそれで例えば他の科目でカバーするなど、また新たな解決策を見い出せるのです。
問題は改善のために「知るだけ」に留めることをせず、問題をまるで自分のアイデンティティーかのようにしてしまうことは、逆にその問題をずっと引きずって、背負って生きていくようなものです。そうすると、問題によって、視野が狭くなり、窮屈な気持ちに自分を押し込んでしまいます。「自分はADHDなんだ。」と自分にラベルを貼ることで、そのラベルが邪魔をして、新しい挑戦や、成長を妨げることにもなりかねません。
人から何かを言われても、もしくは自分で「自分は~なのではないか。」と気づいたとしても、安易にラベルは貼らないー自分は自分、問題を知って成長していく自分、ありのままの自分を大切にしてあげることで、自分の自由と幸せを守ることができます。
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