家に”引きこもり”の家族がいる人へ
家に引きこもっている家族について、どうしたら”引きこもり”から卒業してくれるの?と悩んでいる方へ。
目次
“引きこもり”=「悪」の考えが「悪」になりうる
引きこもりの家族の相談に見える方は、最初の頃は「この”引きこもり”をどうにかしたい!」という思いでいっぱいになっています。
「息子がなんでもいいから仕事にさえ行ってくれれば・・・。」「せめて、家にお金だけでも入れて欲しい。」「見ているだけで、こっちまでおかしくなる・・・。」などなど。
もう最初から”引きこもり”=「悪」という大前提が頭の中に入り込んでいると、「悪」を基準として次の話を進めようとするので、どうにもこうにもうまく進みません。
他人が「悪」であるなら、その「悪」をどう取り除くか、どうやって「悪」を「善」に変えるかなど、「相手をどう変えようか」という視点でしか考えられなくなってしまうからです。
人間関係は誰もが必要としている
“引きこもり”という状況について考えてみましょう。”引きこもり”は自ら孤独を選ぶかのような行為です。
でも本来、人は誰もが人間関係なしには生きていけません。生まれた時から、人の助けなしには何もできないのが人間です。人間関係で傷つくことが多々あっても、同時に人間関係によって幸せや喜びを感じたりします。
人間関係は生きていく上で必要不可欠なものです。“引きこもり”だろうが、どういう状況であろうが、本当に「孤独」を貫いて生きていける人は誰もいません。直接的であれ、間接的であれ、誰でも人との関わりの中で生きています。
人は本来、そういう性質です。それなのに、社会と他人から距離を置いて、自ら”引きこもる”状態が長く続くのは、決して自然なことではありません。
ここで、「そう、自然なことではないから、なんとかしたい!」と家族はすぐに思ってしまいがちなのですが、大切なことは、今、まさに“引きこもり”を続けている本人にとっても、人の性質から見れば、全然自然なことではないという事実です。
“引きこもり”状態になっている人も、本当は、人との関わりの中にいたかったのです。でも、何かしらの理由から、もしくは何かしらの目的から、対人関係を避け、引きこもらざるを得なくて、引きこもってしまっています。
これは不自然なこと。家族が違和感を感じているのと同じように、”引きこもり”の彼・彼女も違和感を感じながら生きています。家族の目にどう移ろうと、引きこもっている本人がどう言おうと、”引きこもり”の本人は心の奥の底で、葛藤を抱えているのです。
引きこもりたくて引きこもっているのではなくて、引きこもらざるを得なくて、引きこもっている人に、「引きこもり=「悪」」というメッセージをどれだけ向けても、何も変わりません。
変わらないどころか、むしろそれは「(心の)攻撃」として受け止められることが多く、余計な問題を起こしてしまいます。
人は問題をすでに自覚している
他人は、自分が思っている以上に、「本当はどうしなくてはいけないのか」ということがわかっています。
自分でも分かっていることをいつも完全にできないように、他人も分かっていることを完全にできないのです。
タバコを吸っている人は、それが身体に悪いと分かっていながら吸っています。太っていて、不健康な人が、甘いものを沢山食べる時は、甘いものを食べ過ぎるのはよくないと分かっていながら食べています。
それを面と向かって、「肺がんになる」やら、「だから太る」などと、正論をかざしたところで何にもならないのです。
「どうしないといけないのか」、「どうしたらいいのか」本当は分かっているけれど、それがなかなかできない他人は、今、その他人を見て自分が苦しんでいるのと同じくらい、苦しんでいます。
自分の問題を認めることで心を慰める
そんな他人に寛容になるためには、「自分にもできていないことがあるじゃないか」と自分の欠点に目を向けることです。
このことを誰もしたがりません。その代わりについつい他人の欠点探しに忙しくなり、傷ついた他人を更に傷つけるという悪循環を起こし、家族の問題がいつまで経っても消えないのです。
「自分に欠点がある」と認めることは、ドロドロとした泥水を、他人に流す代わりに自分の中でせき止めるようなものです。他人に広げて、浄化しようするんじゃなくて、自分の中で、浄化する。
まるで、自己犠牲のようじゃないかと思うかもしれません。でも、決してそうではないんですね。
自分が完全と思っていたら、他人の欠点ばかり目について、本当に息苦しくなってしまいます。自分にも欠点があるという自分の弱さを認めて、はじめて、他人に向けていたトゲトゲしい心が少しずつ慰められていくんですね。
自分の欠点を認めることは、負けを意味するかのように思えて、実は癒しのはじまりだったりするんです。なぜなら、他人を変えて、自分の思いをどうにかしようとする代わりに、自分の中で、「自分の心を浄化する強さ」を芽生えさせることができるからです。
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