自己批判(自分で自分を否定)を繰り返す理由

悩みの正体

自己批判(自分で自分を否定)を繰り返す理由。
それは、否定することで、現実の自分と向き合わなくて済むから。

そもそも自分が好きでないから自己批判をする。
自己批判をするから益々自分が好きでなくなる。

この繰り返し。

自己批判とは、
自分のことを自分でダメだしすること。

健全なダメだしは、成長につながるけれど、
絶えず自分をジャッジするようなダメだしは、
精神的にも、身体的にも苦痛を伴う。

自己批判をやめるには、
まず、自己批判をしたい自分がいることを認めること。

自己批判をしたい。

自分のあれが、ダメ。
これが、ダメ。
やっぱり、ダメ。
それでも、ダメ。

やることなすこと、
何から何まで批判する。

心の中で、もう一人の自分が、
自分の裁判官になっている。

そして、苦しむ。

悩む。

自己肯定感はだだ下がりで、
自信を失う。

イライラしやすくなる。
そのイライラを持って、
人に当たってしまって、
人間関係も壊れていく。

自分にしかなれないのに、
その自分を受け入れない。

それどころか、批判する。

最悪、自殺に至るのはある意味では自然な流れ。

自分の存在をどこまでも批判し続ける。

理由は、
自己批判をしたいから。

自己批判をすることで、得られるメリットがある。
人は、メリットのないことをやり続けない。

自己批判する人にとってのメリットは、
現実を受け入れたくないから。
現実に満足していない。

自分のいる場所、
していること、
着ている服、
関わっている仲間、
もしくは結婚した相手、
持っている財産、
所属しているコミュニティ、
言われた言葉、

・・・

これらの現実に満足していない。

受け入れがたい。

自己批判をすることで、
「こんな現実、私は欲しいわけではありませんよ。」
と言うメッセージを自分に送る。

そして、ここがポイント。
自分にそのメッセージを送ることで、
自分に安心する。

現実に対して、受信したメッセージは、
自分の思っていることと一致する。

現実にいる自分を否定することで、

本当はありたかった、
夢の自分、
理想の自分への
可能性を残す。

〜〜

自己批判をしている以上は、
自分が所属する「本当の場所」は、
どこか別のところにあると言う、
ファンタジーの中に生きられる。

このファンタジーこそが、
自己批判によって得られる快楽。

自己批判をする以上は、
ファンタジーの中で生きられるメリットがある。

現実から離れられる。

だから、現実は、絶対に変わらない!!!

自己批判は現実を、
変えないように維持できる。

ファンタジーの中で生きているから。

現実を変えよう、
もっと幸せになろうと思っていた人は、
自己批判によって、真逆なことをしている。

絶対に現実を変えず、
絶対に幸せにならないように、
不幸で居続けようとする最善策が自己批判。

現実を否定するファンタジーは諸悪の根源。

だから、自己批判をやめる方法は、シンプル。
ファンタジーを捨てて、
現実に生きる決断をすること。

現在、住んでいる場所、
現在、していること、
現在、着ている服、
現在、関わっている仲間、
現在、結婚している相手、
現在、持っている財産、
実際に言われた言葉、
今の体重、
現在、持っているお金、
現在の仕事、
現在の家族関係、
現在の自分の気持ち

・・・

これらをしっかり把握する。

こころ軽く、
幸せに生きる方法は、
自己批判なく、自分を受け入れて現実を見ること。

ファンタジーを握りしめて、
ファンタジーの中に生きることを、諦める。

生きている世界の次元が違うのだから、
目を覚ます。

本当は自分はこんな程度ではないと言う、
どこか大きな理想の自我像が現実を否定する。

そして、その理想の自我像こどが自分に生きる目的を与えてくれる、
希望だと錯覚している。

でも、現実を離れては、
実際はどこにも行けない。

どこにも。

ファンタジーの中で、
どんだけ目標を大きく描いても、
所詮、ファンタジーの中。

現実には適用できない。

自分を現実に生かすことから始めていく。

目標なんて持たなくていい。

自己批判をし続けてきた人が、
いきなり目標を持とうなんてするから、
一気にファンタジーに逆戻りする。

目標も、夢も、全部捨てる。
ファンタジーを捨てる。

そして、現実を見る。
ちゃんと見る。

毎日1日1日の現実を、
自己批判なく過ごす。

ちゃんと直視して、現実に留まる。

現実から離れてしまったら、
100%現実は変えられないことをいつも覚えておく。

自己批判をやめることは、
現実に入ることを意味する。

現実に入って、
現実を生きることを意味する。

自己批判をやめることは、
現実の中にいる自分の存在を認めることを意味する。

それは、生きることを選択することに直結する。

生きよう。