親しき中にも礼儀ありの家族

2019/07/19気持ちとの向き合い方

家族は、親しき中にも礼儀が必要!

家族との関係がいいとストレスをあまり感じない、悪いとストレスいっぱいになる・・・という表現を聞きます。家族は人間関係においてもかなり密着した関係であって、関わる時間も多く、そのことによって心(気持ち)に与える影響も大きいです。

お互いに「何でも言える」家族とか、お互いに「何でも助ける」家族とか、お互いに「何でも許される」家族をイメージすると、一見それはとても理想的で、平和な関係に見えるかもしれません。

このように一見「仲の良い」家族に見えても、外側からそのような理想像に見えているだけで、実際に家族の個々の内側は、複雑に癒着関係が蔓延している可能性もあります。

というのも、「何でも言える」「何でも助ける」「何でも許される」というのは、本来、個々の人間なら誰しもが持っている(べき)境界線が曖昧です。家と家の間にフェンスも何もなければ、どこまでが自分の家で、どこからが他人の家かがわかりづらくなります。目に見える世界ではいつも、フェンスを作ったり、線を引いたりして、「ここまでが私」「ここからが他人」というように明確に線引きしているのです。

今回はそんな家族関係を見ていきたいと思います。

見せかけだけの仲良し家族!?

家族関係において、このようなフェンスがない状態になっていると、お互いに土足で好き勝手に相手の領域まで入り込むことができます。すると、たとえば、本来は子供自身が責任をとって負うべき課題であるのに、過干渉をして、親が介入してしまい、いつまで経っても親に依存した子供になってしまう可能性が出てきます。

逆に、子供も親との結びつきが強いと、親に対する想いも一層強く、親のことに対して、あれこれ介入し、親の心配を自分ごとのようにしたり、子供の立場なのに、親を指導したり、過剰に世話をしてしまい、自分の家庭(独立しているなら、自分自身の配偶者の関係や子供との関係)に影響を及ぼしてしまうかもしれません。

家族関係において、お互いのことに深く関わり、相手が困らないように色々と手助けをしたり、時間や資金面において、協力したりすることは一見、愛があって優しい家族のように見えます。

でも、実は単純に親離れ、子離れができておらず、個々の境界線(フェンス)が明確にないために、他人の課題のことで、悩んだり、心配したり、そしていき過ぎた干渉が、相手への叱責は非難に変わったりして、相手を怒らせてしまうことにもつながってしまうのです。

見た目は仲良し家族なのに、そこには地雷がいっぱい埋まっている可能性があります。

「自分」はどこにいる?

家族といえども、一人一人は別の個体です。そして、人間は誰しも、自分の内側だけの領域と、外側にオープンにする領域の二つを持ち合わせています。

これらの境界線が曖昧だと、家族の困難や試練、失敗なども全部自分ごとしてしまい、心の中ではいつも「自分」が存在せず、真の自由を味わうことができません。結局、自分でありながら誰か他の人生を歩んでしまうことにもなるのです。

その結果、自分の人生に満足がいかなかったり、いつも他人のことにかまけて、他人のために時間を使い、自分のなすべきことがうまく進まなかったりするという、本末転倒な問題も生み出してしまうのです。どこか自己犠牲的な関係では、自分が自分として輝くことをいつも後回しにしてしまいます。

「自分」を見失わないように、家族との間でもどこまで自分は受け入れ、何を受け入れないのか、境界線を持っておくことは大切です。

家族への礼儀は成長への礎

家族とはいえ、「親しき仲にも礼儀あり」です。

この礼儀とは、親切にしたり、挨拶をしたり、お礼をしたりすることだけを意味しません。断るべきこと、自分が関与するべき課題でないことには、手を離す勇気です。そして、相手を真に尊重することは、相手を信じることであることも学びます。それは、相手が責任をとらなくてはならない課題に対しては、あれこれ手出しをしようとすることから身を引き、見守る姿勢に変わることを含んでいます。

自分がどうこうすれば、問題を回避できる、失敗を避けられると思って、家族の肩代わりをしていたら、いつまで経ってもその当の家族は、成長することができません。そして、そうやって翻弄している自分自身も、自分の人生を見失うという負のスパイラルに陥ってしまうのです。これでは、両者にとって決して良いことではありません。

家族の中に健全な礼儀を持てるようになると、家族における自分の立ち位置も明確になり、適切な役割を果たすことに留まることができるようになります。こうした態度で家族と接することは、自分の人生を充実させることに繋がり、結果的に周りにも良い影響を与えることができるのです。