無関心をやめるメリット
家族の精神の病気に振り回されて、苦しい状況の中にいる時、あまりにも辛くて、全てを投げ出したい気持ちになるかもしれません。
そんな時に、陥りがちなのが「無関心」です。いっその事、関わらないようにしてしまう・・・という態度。今回は、その無関心をやめる理由について書いていきます。
目次
心を閉じて孤独にならないために
著作家の野本三吉さんが紹介していた詩にこのようなものがありましたので、引用します。
ねんど
人の心はねんどのようだ
いろいろかわる
ほっとかれたねんどはかたくなる
人の心とおなじじゃないか
私は恐怖心で心がガチガチになってしまって、自分の心を開けない人と会ってきました。そのような人は、まさにこの詩の中にある、固くなったねんどのようだったのかもしれません。
固くなる前に、誰かが手を差し伸べたら、固くなる前に、誰かがその人が感じている痛みを批判することなく、理解しようとしたら・・・どれだけ救える人の心があるか、計り知れません。
固くなってしまった人の心をほぐすどころか、固くなった心を持つ人に翻弄され、疲れ果て、自分まで、心を固くしてしまう。「無関心」になるというのはそういうことです。
自分も心を閉じてしまったら、誰かが助けようと手を差し伸べてくれても、素直に受け入れられません。自分をオープンにできません。そうやって、次第に孤立していき、同時にどんどん心を固くしていきます。
悲しいですね。連鎖していくんです。心を閉じた人に影響されて、自分も心を閉じてしまう。無関心は、一時的な自己防衛と、現状の苦しみからの一時的な逃避は確かに約束してくれるかもしれないけれど、それは他でもなく「自分の心まで固くする」という犠牲なしには実現しないんですね。
そして、心が固くなった状態で人は、幸せを感じ、自由を味わい、喜んで生きていくことができま線。「無関心」は実は、孤独への入り口であり、自分の心を閉じてしまう始まりだったんですね。
心の健全のために
人は、本当は「助けたい!」「貢献したい!」という根源的な欲求があります。人は、みんな「自分勝手」で、「自分のことしか考えていない」ように思える時もありますが、本当は「できるなら、人に貢献したい、そのことで自分の存在を活かしたい」という思いは、どこかで持っているんですね。
逆に、それがうまくいかないと、人生があんまり面白くなくて、せめて自分くらいは満たそうと、必死で自分のことばかり考えてしまうんです。
本当は、「ありがとう」と言われれば、嬉しいし、「助かった」と言われれば、嬉しい。でも、様々な辛いところを通ってきたら、本来持っていた純粋な感情も少し鈍ってしまっているんですね。
目の前にいる家族がどんな状態であれ、「無関心にならない」ことを選ぶことは、自分が本当は望んでいた、「助けたい」とか「貢献したい」とか、「力になりたい」とかそういう思いに素直に応えてあげることでもあるんです。
なんだか、打算的に、自分本位に聞こえるかもしれませんね。でも、それでいいんです。人はそもそもそんなに強くありませんから、全く自分を無にして、人に尽くすことなんてできません。
「本当は力になるのが嬉しいから、(色々思うことはあるけれど)やっぱり力になることを選ぶ。」これでいいんです。
自分が助けられるから
どんな仕事もそうですが、「サービスをする」ことを通じて、自分が実は助けられていますよね。ラーメン屋さんは、ラーメンを提供することで、空腹の人の胃袋を満たすことができます。同時に、ラーメン屋さんは、空腹の人によって、自分が生活の糧を得て、生きる資源をもらっているんですね。
目の前の現実があまりにも苦しくて、逃げ出したくなるような状況だと、まるで、自分が一方的にサービスし続け、自分を無にて、犠牲になり続けているような錯覚をしてしまうかもしれませんが、決してそうではありません。
人と人との関係がある以上、常に、助け、助けられているんです。励まし、励まされているんです。癒し、癒されているんです。不思議ですね。
でも、人間関係というのはそういうものです。相互にちゃんと作用しているんです。だから、今、自分が何から何まで助けてあげているような気持ちになって、そのことに疲れ果てて、何もかも投げ出して、無関心になりたくなった時、実は、気づいていないだけで、助けられていた部分があったことを思い起こしてみてください。
目に見える物質的なこと、分かりやすい「やってあげたこと」だけが「助ける」ということではありません。今までは見えていなかった、物事の新しい見方、そして自分の生き方や考え方など、目には見えないけれど、確実に助けられているものがあるはずです。
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