年をとることが楽しみと思える理由(2)
前回の年をとることは毎日成長することに続き、関連テーマで2回目です。
年をとることが楽しみになるのは、成長することに面白みを感じるからです。そして、前回の記事では、この成長を真剣に求めていくなら、年をとればとるほど益々、深みのある人生を送ることができると書きました。
でも、逆にこの成長を、「良いもの(面白いもの)」としないなら、残るものは肉体だけです。
目次
人の身体(存在)は肉体と思いでできている
どういうことかと言うと、そもそも人の身体(存在)は、肉体と思いでできています。肉体があることによって、「あ、あの人はここにいるな!」ということが、もちろんわかります。
でも、たとえ目の前にいなくても、遠くに住む子供のことを思い巡らす、もしくはメールで誰かにメッセージを送る、電話で話す・・・これらは、存在そのものは目に見えませんが、でも確実に存在しているからできることです。
思いの上で認める存在も立派な存在です。物理的に会える人なんて限られていますから、もしかしたら、ほとんどが思いの上での存在かもしれません。人の身体が肉体と思いの2つでできているのなら、心の部分、つまり思いのところで、成長をしないのなら、肉体だけが残ってしまいます。
肉体は年の経過と共に衰える
でも、この肉体の部分はどうでしょう?当然、年をとれば、目は悪くなり、足腰は衰え、白髪が出てきて、耳は遠くなり、言葉が出てこなくなり、シワは増え、走れなくなる・・・などなど様々な症状が出てきます。進歩どころか、残念ながら後退していきます。
よく、アンチエイジングとか、昔より若返るとか言いますが、それは若い時、好き勝手なもの食べたり、不摂生だったり、あんまり細かなケアなどをしなかったので比較対象でよく見えるのか、ようやく年を経てまともに身体と向き合い時め健康的になったのか、もしくはただの勘違いです。機能としては、明らかに劣化していくのが人間の身体です。
もちろん、明らかに時代は良くなっていますから、世の中には良いものが沢山出ています。昔はありえなかったような健康を維持することができます。でも、技術もやツールも、所詮、補完的な役割を超えることは出来ません。
その証拠に、誰だって死ぬという現実があるわけなのです。そして、例外なく人は鏡を見て、昔より年をとっていく顔になっていっています。
身体(存在)の思いの部分だけはどこまでも成長できる
この事実を本当に深く考えていくときに、肉体とは違って思いの部分だけは、どれだけでも賢く、高みに向かっていくことができます。逆にここにしか真の意味で成長はないのだと気づきます。むしろ、際限なく無限に、人の考え方や思いはどこまでも成長できるのです。
私がここで言っている成長とは、まさに良い成長のことを指しています。
子供の方が純粋で、罪深くないなどと言ったりしますが、本来、それは、いつまでも肉体ばかりが大きくなって、人として、自分の思いや心の部分を成長させようとしていないからそうなってしまうのです。
その結果、いつまでも人との比較やら、憎しみやら、競争やら、そんな自分中心のことばかり考えて、その愚かな考えから起こした問題の後始末に、尊い時間をまた使ってしまいます。
こんなことを繰り返していたら、いつまで経っても成長できるわけがありません。
人間が人間として存在する2つのうち1つの肉体は、残念ながら衰えていきます。でも、もう1つの思いの方にもっと真剣になって、成長できるかによって人生を作り変えることができるのです。
日々、外見を美しくすることと同じくらい、思いの成長、心の成長といった側にも真剣になって取り組んでいくとき、本当に日々が「成長と進歩の毎日」に変わっていきます。
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