アドラー心理学「嫌われる勇気」全体論(8)

心が軽くなる考え方

今回は、アドラー心理学「全体論」について、取り上げます。

心と身体は切っても切り離せない

アドラー心理学は別名「個人心理学」とも呼ばれています。個人心理学は、individual psychologyと訳され、このindividualという単語は「(これ以上)分割できない」が語源になっているそうです。

個人とは、これ以上、分けられない最小単位であることー1人がこれ以上分割できないものであることは、考えてみれば、当たり前です。私たち人間は、自分の手も足も髪の毛も、自分に所属するものとして扱います。

アドラー心理学では、二元論的価値観に反対しています。例えば、精神と身体。もしくは理性と感情。そして意識と無意識などについてです。もちろん、それぞれは別個のものとして存在していますが、「自分の精神(心)が、こうするから、身体がこうなった」というように、あたかも精神が自分のものでありながら、他の誰かのような言い方、扱い方をすることを否定しています

よく考えれば、私の手のせいで、足のせいで、髪の毛のせいで、こうなった・・・というのはおかしなことです。身体に属する全てが、自分のものであり、全てのものと付き合っています。「何かをするという思いがあって、何かの行動をする。」ーこの時、心と身体はいつも一体です。

心からしたいと思って、行動する。本当はしたくないと思いながらも、やっぱりする行動する選択をする。することもしないことも何も考えていなかったのに、不可避的な事柄のせいで、することになってしまった。など、様々な場面が日常ではあります。しかし、どんな時でも、心と身体は一緒です。

アドラーが二元論的価値観に反対したのは、明確な理由があります。それは、ここを反対しないと、簡単に、人生の嘘へと繋がってしまうからです。人生の嘘とは、「さまざまな口実を設けて人生のタスク(人生で向き合うべき課題。ここでは対人関係のこと)を回避しようとする」ことです。

もちろん、どう考えるかは自由です。でも、どのようにでも考えられる中で、心と身体は切っても切り離せないものと考えることこそ、唯一、自分がやること、なすこと、起きることに全て真正面から向き合い、言い訳をすることなく、自分の人生を目一杯に歩める考えであることは事実です。

「全体論」とは?心と身体は一つ

このように、一人の人間をこれ以上分割できない存在だと捉えることを、本の中では「全体論」と呼んでいます。

全体論では、どこまでも自分の行動のすべてに責任を持つ考えです。

「疲れていたから~した。」とか、「ストレスが溜まっていたから~した。」ということがありますが、よく考えていると、これは、あたかも「自分(精神)」はそうしたくなかったけれど、「自分(肉体)」が疲労したから、~してあげた・・・というように、精神と肉体を切り離して、まるで他人事のようにしてしまっています。

まだ言っている?「頭ではわかっているけれど、できない」の対処法

普段、何気ない日常の中で、しょっちゅう、このような考え方をしてしまっているかもしれません。

ここで大切なのは、「疲労しているから~をした」という行動そのものは別にそれでいいんです。問題なのは、その動機を自分から離してしまっていることです。

本当は、心も身体も自分のものであるはずです。アドラー心理学の、目的論に立てば、この場合は、「~をするために、疲労しているという状態を利用した。」という理解になります。

言い訳なし、待った無しのストレートな解釈です。「いや、本当に疲れていた。」と思うかもしれません。

でも、どれだけ疲れていても、子供が急病になった、突然心躍る楽しいことが舞い込んできたら、いつでも行動は変わります。それほど、人の心と身体はいかようにも変わることができるのです。

幸せの階段を上っていく生き方

全体論が正しいのか、正しくないのかを議論することは、心理学と医学の世界として一度離れて、それよりも、「何が幸せに繋げられる」考え方かを考えると、全体論捉えるメリットが見えてきます。

全体論は、「こう思ったのに(精神)「こう行動してしまった(身体)」などと、自分を分割しません。どこまでも全体として「ひとつの自分」です。自分が自分の全てに責任を持ちます。

こうやって言い訳なく、一つ一つの課題に向き合っていくことは、実は、幸せの階段を上っていっています。

なぜなら、自分に悪いことを考えて、良いことをし続けるのは難しいので、だんだんと、いつも良いことを考えて良いことをしようと脳が変わってきます。

幸せになるとは、心の持ちかた一つでいかようにも変わります。そして、心と身体は一致しているのなら、「心ではわかっても、できない」という言い訳も消えてくるのです。

全体論で考えることは、自分の理想にどんどん近づいていく生き方です。そして、もちろん、時に言い訳をしたり、分かっているけれど、したいけれどしないことがあるかもしれません。

でも、全体論の考えに留まる限りは、やっぱり言い訳を認めないので、自分に素直に振り返り、反省することを求められます。その結果、常に成長し続けることができます。

完璧になるということは死ぬまでありません。完璧になれないのなら、その代わりに「成長し続けること」はとてつもなく理想的な生き方です。今日より、明日。明日より、明後日。自分自身の心の成長を日々感じることができるのは楽しい生き方です。

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全体論がどんどん自分のものになっていくと、「心だけが成長しても、身体がついてこないと・・・」とか「マインドだけ変えても、行動できないと・・・」のようなことは本来はないのだということが段々わかってきます。

心が成長していくということは、身体(つまり行動レベル)においても成長することであり、人生が変化していくことなのです。

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<追伸>全体論は、「嫌われない勇気」では僅か4ページ弱で書かれていました。さらっと紹介されていますが、実はとても大切な考え方です。

心と身体は一つ。そう思って、明日から過ごしてみると、少しずつ言い訳がなくなって、もっともっと自分に正直に向かい合い、自分の人生に責任を持てるようになります。

一度だけの人生。「ひとつの自分」で更なる「幸せの階段」を登っていきましょう。

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