【人間関係の境界線】「私さえ我慢すれば」の思いを捨てること①
「私さえ我慢すれば」という思いを抱えている方へ。
今回は同じテーマで、3つに分けて書いていこうと思います。
まず1回目は、「私さえ我慢すれば」の思いをちゃんと捨てようということです。
この我慢を捨てることで、自分になっていくということについてです。
目次
心重くなる自己犠牲感「私さえ・・・・」
「私さえ我慢すれば」の思いは、心をとっても重たくします。なぜなら、私さえ我慢すればの後に続く言葉は大抵、「できる」なんですね。
私さえ我慢すれば、何かができる、何かがうまくいく・・・
んですね。
特に家族に対して。配偶者や子供に対して。
すごく我慢して、犠牲を払っているあなたは、日々心が休まらない日々を送っているかもしれません。
こころの栄養は、境界線という考え方を大切にします。
「私さえ我慢すれば」という考えには、たとえ本当は自分が守らなくてはいけない自分の領域内においてでも、相手に対してオープンになり過ぎているんですね。
相手が土足で、自分のプライベートな部屋の中に入ってくるような、そんな自由を認めてしまっているイメージです。自分の境界線について、野放し状態なんです。
つまり、
相手を「自分の領域」に入れ込んでしまっている
んですね。
自分のことがよく分からないの正体
そうすると、どういうことが起きるかというと、自分という輪郭がどんどんわからなくなっていきます。
境界線が機能していないってことです。
自分が誰かわからなくなっていくんです。
みんなにとってはすごく良い人で、献身的な人で、役に立っている人かもしれませんが、
自分は自分を見失ってしまう・・・そんなことが起きてしまうんですね。
よく、「自分のことがよく分からない」という人がいます。自分は無視でいいからとか、自分は別にいいんで・・・という人がいます。
自分でしか自分になれないのに、その自分を軽視してしまうんです。
そして、心がずっしり重たくて、疲れてしまって、ふと思うんですね。
どうして、他人が協力してくれないのだろうとか、
もっと楽になれないのだろうか・・・と。
もし、そのように思うことがあるのなら、この「私さえ我慢すれば」の行動を徹底的にやめる時です。
自分を犠牲にして、我慢してまではやらないということですね。
というより、我慢してやる相手よりもまず、
あなたがめちゃくちゃ大切ですよ!
っていうことです。
自分は自分。他人は他人。
あなたがちゃんと自分自身の境界線を守りはじめ、あなたがちゃんと自分になり始めるのなら、
他の人は、ちゃんと「その人」になってもらうことを助けることができます。
人が脱いだもの、
人が食べたもの、
人がやるべき仕事、
本当は、心がついてきていないのに、
「私さえ我慢すれば」でやっていませんか?
本来守るべき、自分自身の境界線を放棄してしまうことは、相手を無防備に、自分の中に受け入れることを意味します。
これは、愛でも思いやりでもないんですね。
どちらかというと、相手の境界線をも崩すお手伝いをしてしまうようなことなんです。
相手も本当は入ってきちゃいけないのに、あなたの領域に知らず知らずのうちに入り込んじゃっているんですね。
ただ、これは別のトッピクになりますので、また次の記事で書いていきたいと思います。
ここで伝えたいのは、「私さえ我慢すれば」をやめていくことは、他でもない
あなたが、ちゃんとあなたになる
ということです。
そして、世界は、それぞれの人が、ちゃんと自分自身になることを求めています。
ちゃんと自分が自分になって、心軽く、自分の人生をしっかり生きていくこと。
これこそがもっとも大切な役割です。
「私さえ我慢すれば」のこの思い、手放していきましょう。
それは決して誰かを見捨てるわけではない、冷たい人になるわけではない・・・。
むしろ、あなたの周りにいる人にも、
自分自身になる大切さを伝える
ことになります。大丈夫です。
「私さえ我慢すれば」の思いは、昨日を最後に手放しましょう。
★今回のテーマは連載のシリーズです。
次回、「私さえ我慢すれば」の思いを捨てること②では、自分の全能性を否定することについて、
また、「私さえ我慢すれば」の思いを捨てること③では、相手を自分の境界線に入れる弊害について、書いていきたいと思います。
次回以降のシリーズも読んで頂けますと、嬉しいです。
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