憎くて仕方なかった人ー気持ちの変化は、境界線が引けたということ?
今回は、こころ往復便から、頂いたメッセージに回答します。
事実ではない事をいろいろな人に広めている人がいます。それを、
私の耳に入れてきた近所の友達。それ以来、私の中で何かが変わり 始めました。圧の強い人で、以前からキツイ事も度々言われていま したが我慢しておりました。嫌な人から憎い人になっていた矢先に 、彼女の旦那さんが亡くなりました。心のどこかに、ざまあみろと 言う黒い感情が湧き上がり自分でも驚きながら清々とした気持ちも あります。
これから、こんな気持ちのまま以前の様な付き合い方は出来ないと思います。以前なら、彼女に気を使い、真っ先にお悔みのLINE を送っていたと思いますがこの度はその様な気持ちにもなれない自 分に驚いています。
憎くて仕方なかった人ですが、この度の事でどうでも良い人になった様に感じます。これは、彼女との間に境界線が引けたと言う事で すか?
近所の友人に、あることないことを耳に入れられ、
相手に対して憎しみを抱いていたんですね。
「憎い人」という表現は、ものすごく強い感情です。
まず、他人に対して「憎しみ」を抱くというのは、
それだけ強く反応しているということ。
きついことを言われた経験が積み重なり、
最終的に憎しみという感情にまで発展したようですが、
本来はもっと前の段階で「距離を持つ」ことが、
自分の幸せを守るためにとても大切です。
憎しみという感情は、時に、
自分の人生を壊してしまうほどの破壊力を持っています。
相手からきついことを言われた時、なぜスルーできなかったのか。
もしくは、はっきりとノーを示せなかったのか。
なぜ我慢を選んで、自分を守れなかったのか。
この点は、これからの人間関係においても考察する価値があります。
憎くて仕方なかった相手のご主人が亡くなられたことで、
「もうどうでもいい人になった」と感じ、
そして、「これは境界線を引けたということですか?」という問いについてですが、
文面だけですと、それは“境界線”というよりも、
あなたの中にあった憎しみの感情が、
相手の“肉親の不幸”という出来事に投影され、
結果的に気持ちの決着がついた──ただそれだけのことのように見えます。
憎しみを感じながらも、関係の中で直接的に何かをできなかった。
でも、相手にとっての究極的な不幸が起きたことで、
あなたの中で「ざまあみろ」という形で感情が解消された。
つまり、それは境界線ではなく、
他人の不幸によって、
自分の中で抱いていた憎しみが清々するくらいまで、
大きな憎しみを人に抱いてしまっていたということ。
ここは、自分の心を丁寧に見つめるタイミングです。
人によって、そこまで自分の心を憎しみに満たす感情を持ってしまったこと。
その傾向を認め、そして学ぶ。
もっと前の段階──嫌なことを言われて「嫌だな」と感じたその時点で、
どう対応するべきだったのか。
なぜ、境界線を引かずに我慢を選び、
結果として“憎しみ”という形で心を消耗させてしまったのか。
この点を丁寧に見つめることが、
これからの人間関係で適切に境界線を持ち、
より良い関係を築くためにとても大切なことだと思います。
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