アドラー心理学「嫌われる勇気」シリーズ⑦「課題の分離」前半ー人は人。自分は自分。
今回は、アドラー心理学のメインテーマとも言える
課題の分離
について取り上げたいと思います。
課題の分離は、まさに境界線。
境界線とは、まさに課題の分離。
他人は他人。自分は自分。
この境界線が日常の実践レベルでできるようになると、
ほとんどの悩みは吹き飛んでしまいます。
今回のテーマは、2回に分けて、紹介したいと思います。
目次
課題の分離とは何か?
まず最初に、そもそも課題の分離とは何か?についてです。
課題の分離とは、
課題が誰に所属するのかを明らかにして、
自分以外の課題を切り離し、自分の課題に取り組むこと
です。
もっと加えるなら、
自分の課題にもくもくと取り組むこと
です。
他人の課題を自分の課題として悩み、苦しむことはしません。
逆に自分の課題を他人になすりつけることもしません。
こころの栄養のブログは、心軽くを大切なテーマとしています。
心軽くするために、自己認識の歪みを整え、境界線を持ちます。
理由は、自分の人生を大切にするためです。
自分の人生を大切にするのは、まさに自分の課題ですね。
課題の分離は日常のあらゆる場面に適応できます。
アドラーは、「これは誰の課題のなのか?」と問いかけて、
複雑に絡まった人間関係の問題を紐解いていこうとしました。
「これは誰の課題なのか?」と言われても、ピンとこない場合は、
「誰がこの行動を選択できるのか?」
「最終決定権は誰が持っているのか?」
ということで考えてみてください。
さて、今回の課題の分離は、難易度の高い「依存症」を例として取り上げますね。
例えば、夫がお酒を飲むことにイライラしている妻がいたとします。
その時に、「お酒を飲むことは誰が選択できるか?」をまず考えます。
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妻がどれだけガミガミ言おうが、嫌味を言おうが、
夫は、彼の選択によってお酒を飲むことができます。
夫がお酒を飲まないという選択を夫以外がすることはできません。
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この事実を認めることは、課題の分離の第一歩です。
「でも私が一言言えば・・・」は、課題の分離ではありません。
いつでも、どこでも、常に私たちは選択の自由が与えられています。
自分の行為のあらゆる選択は、自分が最終決定権を持っているんですね。
食べたい時に食べる。
飲みたい時に飲める。
働きたいから働く。
自分が選択する自由はいつでも存在しています。
でも、他人の選択に対しては、誰も自由ではありません。
他人のことに対して、自分の思い通りにすること。
他人が自分の思い通りにならないことに違和感を感じること。
これは、境界線の侵入。つまり、課題の分離ができていません。
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そして、課題の分離ができていないと、誰が生きづらくなると言ったら、
この場合は、妻なんですね。
つまり、「相手の問題に首を突っ込もうとする側の人」が生きづらくなるんです。
「夫にお酒をやめてほしい。妻がそう思うのは当然じゃないか!」と思うかもしれません。
思っていいんです。思った上で、夫の選択は夫のものと認めること。
これが課題の分離です。
他人の課題に入り込まないこと
さて、課題の分離とは何か?が明確になった上で、
次は他人の課題に入り込まないということです。
先ほど、
課題が誰に所属するのかを明らかにして、
自分以外の課題を切り離し、自分の課題に取り組むこと
と書きました。
課題の分離をしたら、次は他人の課題の切り離しです。
他人の課題に入り込まないとは、
「他人の最終決断に踏み込まない」ということです。
他人の最終決断に踏み込むと、人間関係に支配的な関係が生じてしまいます。
最終決断に踏み込むとは、簡単に言うなら、
「決められないなら、私が決めてあげる。」
というもの。
けれども、決めた後の人生は誰が歩むのかと言ったら、他人なんですね。
ある意味、非常に無責任。
決断の後の人生を歩むことはできないけれど、
何か「その人にとって良い」が分かっているかのような感じです。
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もしも、
相手の最終決断を変えさせようと誘導したり、
オブラートに包みながら批判したり、
露骨に指摘したり、巧みに操作したりすることは、
相手の立ち入り禁止区域に侵入しつつあるサインです。
「相手の最終決断の所有者は相手!」
相手に求められて何かを答える、
相手の助けになると思って何かをする、
全てオッケーです。
「他人の最終決断に踏み込んではいけない」と言っても、極端に考える必要はありません。
意見するのも、反対するのもオッケー。
でも、最終決断は常に所有者に。
これが他人の課題に入り込まないということです。
どれだけ大変な現状でも課題の分離は可能
さて、課題の分離についてなんとなくイメージできましたか?
何の仕事を選ぶ。
何を食べる。
どこの学校に行く。
このような個人の選択を決める自由はみんな、本人にあります。
たとえ「思い」があったとしても、
親や友人、周りの人があれこれ言うものではないと理解することは、
それほど難しくないと思います。
ただ、難しいのは、つまり課題の分離が試されるのは、
他人の課題と思える選択が、自分にも多大に影響していると思われる時
です。
相手が、パスタにして、自分がピザにすることは簡単にできます。
でも依存症の例に戻りますが、ギャンブル依存症の夫が、
家のお金を使いきり、仕事もろくにせず、遊び呆けていて、家の経済が火の車になっていたら?
妻は夫に対して、課題の分離するのが難しくなって当然です。
なぜなら、
夫と密に関わっているからです。
夫と人生を共有しているからです。
この時、知っておきたいのが、
それでも課題の分離はできる!
ということです。
課題の分離は、当たり前ですが、人間が個人、個人切り離されている限りできるんですね。
なので、「できる」という前提に立ってみてください。
課題の分離をする時、アドラーは、
「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か」
ということを考えるように言っています。
例えば、先ほどの例だと、夫はギャンブルばかりをやっているので、
お金を沢山失う可能性があるかもしれません。
仕事もろくにせず、ギャンブルばっかりやっていたら、
仕事を失う可能性もあるかもしれません。
夫は自分の行動の責任として、最終的には仕事を失う。
なおかつ、それに愛想を尽かしている妻まで失う。
という結末を最終的に受けることになるかもしれません。
妻は、ギャンブルばかりで、仕事を失うかもしれない夫を前に、離婚しようと考えます。
夫と離婚したいと考えるのは、妻の課題です。
ここで大切なのは、
「夫が離婚まで考えさせるような私にした。夫のせいでこんな苦しい目にあった。」
とはしないということです。
「夫の現状に対して、自分の判断は○○とした」のであって、
「夫の△△が私を○○にした」と考えるのは、
思考が夫の奴隷になってしまっていて、とても不自由な状態なんです。
夫は私の選択と切っても切り離せないと自分に言っているのと同じなので、
益々自分を苦しめてしまうんですね。
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問題に直面しているのは自分自身なのに、
「あなたのせいで」とか、「あなたのために」と問題を自分以外にぶつけようとすると、
課題の分離ができず、行き場を失います。
その代わり、
この私が、現状に耐えられないことを離婚という形で変えようとしているのだ。
自分が、離婚の手段を使って、違う人生を作ろうとしているのだ。
と考えるんです。
その時、離婚は妻の課題であることがはっきり見えてきます。
課題の分離については、初めて聞いた人は、
そんな風には考えられない。
頭ではわかってもできない。
いや、絶対に相手のせい。
といろいろな思いが浮かぶかもしれません。
でも、最初はそれでいいんです。
課題の分離をする目的も、「自分が幸せ」になるためのものです。
悩んでいるとことがあったら、少し手を緩めてみる。
「私は他の人が最終決定権を持っていることについて悩んでいないか?」
と思い巡らしてみてください。
心当たりがあれば、相手の自由(最終決定権の行使)を認めてあげることをやってみてください。
所属を相手に戻してあげて、自分は自分の課題に取り組みます。
課題の分離の考え方は、どこまでも自分の成長と自分の幸せを守るもの。
なんだか敵に見えて、自分の味方なんです。
大丈夫。焦らず進んでいきましょう。
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→→アドラー心理学「嫌われる勇気」課題の分離2(7)へ続きます。
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