アドラー心理学「嫌われる勇気」シリーズ⑤ー健全な劣等感と不健全な劣等感!?

自己認識

今回は、劣等感について取り上げます。

前回このシリーズで、「自分が嫌い」な人について書きました。
自分が嫌い」という思いも、劣等感を感じているからこそ出てくる気持ちです。

アドラー心理学「嫌われる勇気」シリーズ④ー「自分のことが嫌い」の思いとどう向き合う!?

劣等感の言葉の意味

劣等感という言葉は、そもそもどういう意味なのでしょう?

アドラーはドイツ語の「劣等感」という意味を、
劣等感」=「価値」+「より少ない」+「感覚」に分解しています。

「~ができない」
「人から下位に見られた」
「人より優れていない」など、劣等感の感じ方は様々です。

ただ、共通しているのは、いずれも
自分の価値が下がったような気持ちになる
ということですね。

無力感を感じたり、自信喪失して自分のことが嫌いになったりすると、
自分の価値を正しく認識することが難しくなります。

ただ、そもそも価値というものは、
人がどう定義するかでどんな風にも変わってしまうものです。

何も決められた「価値」というものがあるわけではないんですね。

1万円札は、砂漠で水が欲しい時には、ただの紙屑です。
水筒の中の水は、美味しい天然水が湧き出る泉の横では、捨ててしまうかもしれません。

「みんな違って、みんないい」

金子みすずの「わたしと小鳥と鈴と」という詩に、
「みんな違って、みんないい」という言葉がありますよね。

人を比較して「いい」「悪い」を判断するのではなく、みんないいと言ってしまう。
それに、そもそも人が人を目で見て判断できる部分なんて、全体の一部にしか過ぎません。

「いい」「悪い」も、勝手な自分の価値判断で「いい」「悪い」を言っているだけ。
その言葉に何の正しさもありません。

仕事をしているなら、その職場のその基準で、且つその管理者の価値観で、
「いい」「悪い」が判断されます。
家に帰れば、家庭のルールや配偶者の好みや価値観で、
「いい」「悪い」が判断されます。

同じ人間が、ある所では「いい」と判断され、
ある所では「悪い」と判断されるのです。

面白いくらいに価値観というのは、人の主観でコロコロ変わります。

他人から判断される価値は絶対的なものでもないし、
自分で判断する価値もまた絶対的なものではないと知ること。

これは、とても大切です。

そもそも判断する人が人間である以上、人の評価もあてにならないわけですね。

先ほど書いた「みんな違って、みんないい」が全てを語っていると思います。
一人として同じ人間がいない中で、それぞれの個性があり、華がある。

大切なのは、価値を見出すのであって、
ある一部分を人と比較して、価値の大小や優劣をつけることはではありません。

比較することに時間を費やしている限り、幸せは一向にやってきません。

人はみんな唯一無二です。
個人のオリジナリティがいかに尊いものかに注目していきましょう。

劣等感そのものは悪いものではない

アドラー心理学では、劣等感そのものは何も悪いものとはしていません。
厄介なのは、
自分の自信喪失や無力感につなげる「主観的な解釈」(=劣等コンプレックス)
です。

劣等感そのものは、正しく用いれば、逆に、努力や成長の起爆剤になってくれます。
自分の健全な「理想」に向かって歩む日々の中で、
今の自分のなすべきことを見出し、努力していくことができるようになるのです。

健全な劣等感は、たとえ現時点、理想にたどり着いていなくても、
その状態の自分を卑下したり、ダメだなどとは思いません。

喉が渇いたから水を飲むかのように、
「今はこれをやるべき」、「これをやりたいから、一生懸命やる」と言った、
どこまでも「今」に集中して、人生を送っていく姿勢です。

そういう努力や成長は、健全なものです。

「劣等コンプレックス」は悪いもの

逆に不健全な劣等感を、アドラーは「劣等コンプレックス」と呼んで区別しています。

例えば、理想だけを夢見て、
そこにたどり着くまでの人生は捨てたも同じ。
ただ歯を噛み締めて、苦しみに耐える。

これは不健全です。

「今自分が不幸なのは~をしなくちゃいけないからだ」とか、
逆にその理想にたどり着くのをやめたのなら、「~のせいで出来なかった」と言い訳を探したりします。

どちらも主観的な解釈で、勝手に自分の頭の中で因果関係をつけて、納得させているだけに過ぎません。
アドラーはこれを「見かけの因果律」と説明しました。

アダルトチルドレン:甘えられない・人を信じられないことににどう向き合えば?

劣等コンプレックスをもっと簡単に言い換えるなら、
「~のせいで~だ」は「嘘」
と考えてしまうとシンプルです。

「この人と結婚したから不幸」
「大学に行かなかったから給料が低い」
「上司に悪口を言われて、人格否定されたから、引きこもりになった」

などなど。

「~のせいで~だ」と劣等コンプレックスを抱えて、
自分が「変わ『れ』ない」ことを」主張するのは、
厳しい言い方をするなら、「変わ『ら』ない」ことの口実なんですね。

【生い立ち・環境・家族のせいで変われない!?】アドラー心理学「嫌われる勇気」目的論(1)

「~のせいで~だ」という口実は、因果関係を「利用」しているだけで、
「真実」ではありません。

「~の理由でその状況になった」と思えば、気持ちは一時的に紛れるかもしれません。
自分にとっては聞こえが良くても、真実とは限らないんですね。

幸せを本気で求める勇気

アドラー心理学はどこまでも勇気の心理学です。

なぜなら、アドラーは人が「幸せになること」を本気で求めているからです。
幸せの世界に飛び込むに、

努力できることはやっぱり努力する。
やめるべき習慣はやっぱりやめていく。

ということです。

そのために、まずは、
「~のせいで~だ」をやめてみること。
そのシナリオを自分の前提から削除すると、
当然、新しい前提や理由が必要になってきます。

「〜のせい」をやめる時、変化は自ずと起きてきます。
というより、言い訳がなくなってしまったので、起こらざるを得なくなるんです。

同時に「〜のせい」でなく、少しでも多く「~のおかげで~だ」と捉えます。
すると、感謝にも溢れ、幸せな毎日にグンと近づいていきますよ。

共依存の家族問題にアドラー心理学を推奨する理由
【本の紹介】バウンダリーズ境界線ー地引網出版

アドラー心理学シリーズ
アドラー心理学「嫌われる勇気」シリーズ①ー生い立ち・環境・家族のせいで変われない!?には目的論
アドラー心理学「嫌われる勇気」シリーズ②ー毎日は「選択」の連続
アドラー心理学「嫌われる勇気」シリーズ③ー変化すること
アドラー心理学「嫌われる勇気」シリーズ④ー「自分のことが嫌い」の思いとどう向き合う!?

「嫌われる勇気(Amazonで見る)」(岸見一郎著、ダイヤモンド社)

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