【やりたいことがあるけれどしない、挑戦しない理由は?】心の裏に隠れているもの
今回はやりたいことがあるけれど、しない・挑戦しない・・・そんな気持ちがある時、心の裏に隠れているもの3つを取り上げます。
1つ目:結果だけほしいー過程はスキップしたいという考え
2つ目:極端に解釈をして制限をかけている
3つ目:不必要なルールやべき論を握りしめている
具体例として、やりたいことを、今回は「キャベツ入りのペペロンチーノを食べたい!」という例で、想定します。
この部分は、ヨーロッパ 1 周旅行したい!とか、あとは資格をとりたい!とか、大学院に行きたい!とか、転職したい!とか、色々置き換えてみてくださいね。
今回は、あえてすごく日常的な例で、「キャベツ入りのペペロンチーノを食べたいけれど、しない」ということで考えたいと思います。
目次
結果だけほしいー過程はスキップしたいという考え
キャベツ入りのペペロンチーノを食べたい!と頭の中で思った瞬間に・・・パッと目の前に、キャベツ入りのペペロンチーノは現れないですね。
やることとしては、例えば自分で冷蔵庫を見て、キャベツがあるならキャベツを切る。ニンニクがあるなら、ニンニクを薄切りにする。レシピを確認するなら、レシピをサーチする。そして、フライパンを用意する。油をひく。ニンニクをカラカラになるまで炒める。ニンニクを取り出して、そして今度はキャベツを炒める。同時にパスタを茹でる。
そしてパスタとあえる。お皿を準備する。盛り付ける。こういう一連の過程があるわけですよね。自分で作るっていう風に決めたなら、このような過程なしには、出てきません。
大体 20 分もあれば、そんなに難しい料理ではないので出来上がります。
別のやり方としては、そもそも料理をしない場合。キッチンがないとか、もしくは冷蔵庫にキャベツはないし、パスタもないっていう話になると、じゃあテイクアウトしよう!というのも選択肢です。
キャベツ入りのペペロンチーノがありそうなところで、デリバリーしてくれるようなものをサイトで探して、注文をする。そして多分完成まで 3、40 分かかって、家にドライバーさんが届いて、受け取るわけです。
もしくは、外食に行く。家の近くのレストランだったら歩いて行けるかもしれないし、電車に乗る必要があるかもしれない。そしてお店に行ったら、ウェイターと若干のやり取りをして席に着く。そして注文して、作ってもらう。出来立てが、目の前に来る。
どんな場合でもそうですが、キャベツ入りのペペロンチーノを食べたい!という風に思ったら、
自分が思ってから得るまでに、必ず時間差がある
わけです。
キャベツ入りのペペロンチーノを食べたいと思って、なんと妻が偶然キャベツ入りのペペロンチーノを完成間近まで作っていて、自分が思った瞬間に 1 秒差でテーブルに出てきた・・・なんてことは映画のような話です。
やりたいことと、その結果を得るまでに時間差があるなんてことは、当たり前ですね。仕事もそうです。目標を立てて、実現のために、いろんなことをやっていく。何でもかんでも瞬間瞬間に結果は出ません。
私たちの衣食住、全て、過程を通っているわけです。綺麗な部屋が欲しい。掃除機をかけます。これも一瞬、手を鳴らしたら部屋のほこりが吸い取られる…そんなメリーポピンズみたいな世界ではありません。
結果を得るまでに、過程があって、時間差があることは、当たり前のこと。ただ、過程→結果の道しるべが見えていなかったり、過程があまりにも長いと感じたり(例えば少なくとも3年、4年もかかる)、過程を通っても結果が保障されていない、つまりリスクがあると思うと、そもそもやろう・挑戦しようという気持ちにブレーキがかかりやすくなります。
テイクアウトという選択肢やレストランという選択肢も見えてなく、家の冷蔵庫に何があるのか、レシピがどんなものかもわからないと、自分が求めているものを得ていくための行動すらとれない…つまり迷子になっているんですね。
目に見えないこと、良く分からないこと、リスクがありそうなこと、長くかかりそうなことは、避けようかなという気持ちになるのは普通です。
自分を守るためですね。
良く分からないから、結局変わらない選択をしている状態です。過程はすっ飛ばせないにもかかわらず、いっそのこと、過程を飛ばして、結果だけ得られたらいいなーという夢物語(ファンタジー)にいる状態です。
極端に解釈をして制限をかけている
もう一つは、自分のやりたい事を、極端に解釈している可能性があるんですね。あまりにも大きいもの、難易度が高いもの、大変なもの、と考えてしまってるんです。
たとえば、「キャベツ入りのペペロンチーノは、あのホテルのシェフしか作れない!」という風に思っているんですね。これは事実かどうかって言ったら・・・事実じゃないですよね。人が作る分だけ、色んな種類のキャベツ入りのペペロンチーノがあるのが事実です。
色々な種類があって当たり前なんです。人の数だけ、人生があります。にもかかわらず、自分の人生を歩んでいくのに、あの人が作ったあのペペロンチーノしか、ペペロンチーノとして成り立たないと、自分の中で勝手に解釈しているんですね。この場合は、当然自分が挑戦しようとする理由にはなってこないんです。
自分が作ったキャベツ入りのペペロンチーノであったり、自分の近所で身近に手に入るペペロンチーノを拒絶しているわけですから。
あのシェフが作った、あれしかダメなのだと、勝手に自分で制限をかけ、
自分で自分で首を絞めている状態
です。
人の数だけ人生があるように、キャベツ入りのペペロンチーノも無数にあるわけなので、自分バージョンの人生を歩めばいいのに、なぜか他の人にしかできないこととしてしまっているんですね。
ちなみに、本当に自分にできないことなら、そもそもやりたい!挑戦したい!とすら思わないもの。心はそんなに馬鹿じゃないですから。
たとえば、私は元オリンピック選手のボルトのように100mを走ることはできません。でも、別に全然かまいません。学生時代に、陸上部に入りたいすら思ったこともありませんから。マラソンには興味がありますが、景色を見ながら旅先でゆっくり走りたいです。そんな一目散に走りきることなど、興味の微塵もないです。
本当に自分が出来ないこと(たとえば身体能力的に)は、そもそもしたい、挑戦したいとも思わないし、たとえ思っても、答えが明らか過ぎて悩みにもならないものです。
自分の頭のなかだけで、事実でないことをあたかも事実だと思いこんだり、極端な解釈が自分にブレーキをかけてしまっている状態です。
不必要なルールやべき論を握りしめている
最後は、自分の中にある、結構どうでもいいルールやべき論への囚われです。例えば、冷蔵庫の中に、昨日作ったオムライスがあったとします。
すると、キャベツ入りのペペロンチーノを食べたいのに、まずは残り物のオムライスを食べる「べき」だとか。で、残り物を食べ終えたら、冷蔵庫にキャベツはなくて、白菜があることに気づく。
ならば、白菜で八宝菜を作ってからにする「べき」だとか。こういう独自の思考ルールです。この場合は、いつまで経っても、やりたいことに挑戦していきません。やりたいことの優先順位を自ら下げるんですね。
本当は、キャベツ入りのペペロンチーノを今すぐに食べる自由はあるし、それを選択してもいいにもかかわらず。
結果、自分のやりたいことをどんどん後回しにしていきます。ここで、人間関係の境界線がうまく機能していないと、自分軽視も平気でしたりしていきます。
境界線を持つとは、自分の「やりたい・したい」の感情を所有すること
例えば、まずは夫の世話をすることが先だとか。自分より他人のことを優先していく。そのうち、どんどん年齢を重ねていって、結局自分のしたいことは何もできず、他人の人生のことばかりに忙しくしてしまって。(しかも、特に他人から頼まれていない・・・なんてことも。)
なぜこうなるかというと、
自分のしたいことは後から!
っていう風に思ってるからですね。本当は、家の冷蔵庫にオムライスがあろうが、白菜があろうが、「私は今日キャベツ入りのペペロンチーノを食べたい!」それでいいわけですよ。
ルールやべき論は、確かに役立つことも沢山あります。でも、自分のしたい感情を曲げ、人生をつまらなくさせている(させ続けている)にもかかわらず、握りしめている価値はないです。
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以上、やりたいことがあるけれど、しない・挑戦しない・・・そんな気持ちがある時の心の裏に隠れているもの3つを取り上げました。
心のブレーキですね。まだまだあると思うので、また別の要素も取り上げていきます。
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