アドラー心理学「嫌われる勇気」劣等感(5)

心理・思考

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今回は、劣等感について取り上げます。

前回このシリーズで、「自分が嫌い」な人について書きましたが、「自分が嫌い」も、劣等感を感じているからこそ出てくる気持ちです。

劣等感の言葉の意味

劣等感という言葉は、そもそもどういう意味なのか考えた事はありますか。

アドラーはドイツ語の「劣等感」という意味を「劣等感」=「価値」+「より少ない」+「感覚」に分解しています。「~ができない」とか、「人から下位に見られた」「人より優れていない」など、劣等感の感じ方は様々ですが、共通しているのは、確かにいずれも自分の価値が下がったような気持ちになるということです。

無力感を感じたり、自信喪失して自分のことが嫌いになったりすると、自分の価値を正しく認識することが難しくなってきます。

ただ、確認したいのが、そもそも価値というものは、人がどう定義するかでどんな風にも変わってしまうものです。何も決められた「価値」というものがあるわけではありません。これは事実であり、とっても大切な考えです。

「みんな違って、みんないい」

金子みすずの「わたしと小鳥と鈴と」という詩に「みんな違って、みんないい」という言葉があります。

私はこの表現が好きです。人間は、すぐに、人と比較して「いい」「悪い」を判断したがりますが、そもそも人が人を目で見て判断できる部分なんて、全体の一部にしか過ぎません。

そして言っている「いい」「悪い」も、勝手な自分の価値判断で「いい」「悪い」を言っているだけで、その言葉に何の正しさもありません。

仕事をしているなら、その職場のその基準で、且つその管理者の価値観で、「いい」「悪い」が判断されます。家に帰れば、家庭のルールで、もしくは妻や夫の好みや家族の価値観で「いい」「悪い」が判断されます。

同じ人間が、ある所では「いい」と判断され、ある所では「悪い」と判断されるのです。それくらい価値観は、人の主観によるものでコロコロ変わります。

大切なのは、他人から判断される価値は絶対的なものでもないし、自分で判断する価値もまた絶対的なものではないと知ることです。そういう意味では、そもそも判断する人が人間である以上、人の評価もあてにならないわけです。

先ほど書いた「みんな違って、みんないい」が全てを語っていると思います。一人として同じ人間がいない中で、それぞれの個性があり、華がある。大切なのは、価値を見出すのであって、ある一部分を人と比較して、価値の優劣をつけることはではありません。

こんなことにいつまでも時間を費やしている限り、幸せは一向にやってきません。異なる人々を無理やり「同じ」に並べようとして、比較したり、評価したりするから、時に自信を失ったり、自分の価値を見出せなくなったりするんです。

そんな小さな舞台で自分自身を見るのではなくて(もしくは小さな世界でしか自分を見てくれない人を気にするのでもなく)、もっと何段階もズームをして、遠くから自分という存在(もしくは他人)を眺めてみようとすれば、個人のオリジナリティがいかに尊いものかが見えてきます。たとえ見てこなくても、見ようと努力し始めます。

劣等感そのものは悪いものではない

アドラー心理学では、劣等感そのものは何も悪いものとはしていません。やっかいなのは、自分の自信喪失や無力感につなげる「主観的な解釈」(=劣等コンプレックス)です。

劣等感そのものは、正しく用いれば、逆に、努力や成長の起爆剤になってくれます。自分の健全な「理想」に向かって歩む日々の中で、今の自分のなすべきことを見出し、努力していくことができるようになるのです。

理想という言葉を使いましたが、健全な劣等感はたとえ現時点、理想にたどり着いていないからって、その状態の自分を卑下したり、ダメだなどとは思いません。

喉が渇いたから水を飲むかのように、「今はこれをやるべき」、「これをやりたいから、一生懸命やる」と言った、どこまでも「今」に集中して、人生を送っていく姿勢です。そういう努力や成長は、健全なものです。

「劣等コンプレックス」は悪いもの

逆に不健全な劣等感を、アドラーは「劣等コンプレックス」と呼んで区別しています。

例えば、理想だけを夢見て、そこにたどり着くまでの人生は捨てたも同じ、ただ歯を噛み締めて、苦しみに耐える・・・これは不健全です。

そして、「今自分が不幸なのは~をしなくちゃいけないからだ」とか、逆にその理想にたどり着くのをやめたのなら、「~のせいで出来なかった」と言い訳を探したりします。どちらも主観的な解釈で、勝手に自分の頭の中で因果関係をつけて、納得させているだけに過ぎません。アドラーはこれを「見かけの因果律」と説明しました。

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劣等コンプレックスをもっと簡単に言い換えるなら、「~のせいで~だ」は「嘘」だと考えてしまうとシンプルです。「この人と結婚したから不幸」とか、「大学に行かなかったから給料が低い」とか、「上司に悪口を言われて、人格否定されたから、引きこもりになった」・・・などなど。

「~のせいで~だ」と劣等コンプレックスを抱えて、自分が「変わ『れ』ない」ことを主張するのは、厳しい言い方をするなら、「変わ『ら』ない」ことの口実です。

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これらの口実は「~のせいで~だ」という極端な因果関係を利用していて、「真実」ではありません。だから、「~の理由でその状況になった」と思えば、気持ちは一時的に紛れ、自分にとっては聞こえが良くても、やっぱり「嘘」になってしまうわけです。

幸せを本気で求める勇気

アドラー心理学はどこまでも勇気の心理学です。

なぜなら、アドラーは人が「幸せになること」を本気で求めているからです。幸せの世界に飛び込むに、努力できることはやっぱり努力していきたいし、やめるべき習慣はやっぱりやめていきたいものです。

そのために、まずは「~のせいで~だ」をやめてみること。そのシナリオを自分の前提から削除すると、当然、新しい前提なり、理由が必要になってきます。

「〜のせい」をやめる時、変化は自ずと起きてきます。というより、言い訳がなくなってしまったので、起こらざるを得なくなるんです。同時に「〜のせい」でなく、少しでも多く「~のおかげで~だ」と捉えられるようになると、感謝にも溢れ、幸せな毎日にグンと近づきます。

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